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藤村忌に因んで藤村邸で箏の演奏
今年のはじめに筝曲家で有名な故宮城道雄氏の直弟子の石綿範子(小田原在住)さんから、藤村の詩に宮城先生が作曲した曲を藤村忌に演奏し、島崎先生にささげたいと相談がありました。貴重なご好意を受けとめ開催のための打ち合わせを重ねてきました。8月にやっと話がまとまりましたので、町観光協会に藤村忌の関連行事に取り入れることを要請しました。ところが曖昧な理由を挙げて拒否されたので有志で取り組むことにしました。
当日は石綿さんと娘さんの2人で3曲を演奏していただけることになりました。ご来聴をお待ちしています。
(観光協会のあり方は議会で質します。)
☆ 日時 平成17年8月22日(月)午前10時30分〜
☆ 場所 藤村邸 (入場は無料)
☆ 演奏曲 1 若水 2 潮音 3 えにし
☆ 演奏者 石綿範子: 宮城道雄直弟子、東京芸大卒、宮城会関東支部幹事・
宮城会大師範・小田原三曲会会長
石綿純子: 3歳より母範子に箏を学ぶ、東京芸大卒、宮城会師範
小田原三曲会理事
若水 くめどつきせぬ かわきもしらぬ かのわかみづと かのわかみづと
わかみずを わかみずを みをなして みをなして
きみとくままし きみとくままし はるのこころに きみとながれん
かのいずみ かのいずみ わきいでん 花のかげ
潮音 わきて流るるやをしをの よろづの波をよびあつめ
そこにいざよふ海の琴 ときみちくればうららかに
しらべも深しももかはの 遠くきこゆる春のしほのね
えにし わが手に植えし白菊の ひともと花の夕暮れに
おのづからなる時来れば 秋にかくれて窓にさくなり (藤村・若菜集より)
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藤村邸入り口 |
藤村邸の内部 |
源義経の悲運との関連があった鴫立庵 ! ?
鴫立庵は西行法師没後約500年後の元禄8年(1695年)に大淀三千風によって再興された。仙台の瑞巌寺で15年間俳道に精進し諸国行脚の後、敬慕する西行法師の像(文覚上人作)を京から運び再興した。西行法師が69歳のとき東大寺大仏殿勧進のため、平泉の藤原秀衝と鎌倉の源頼朝に会いに行く旅の途次、この鴫立沢のほとりで名歌「心なき身にもあわれは知られけり、鴫立沢の秋の夕暮れ」を詠んだことに因んでいることは知られている。西行自身もこの歌をすごく気に入っていたことが記録に残っている。
しかしこの歌にこめられた西行の思いについての解釈はいろいろあった。
観光ガイドボランティア協会で資料を調べた結果、源平の戦いと義経の悲運と深く関連していることが分かった。
平泉への旅(1186年)は西行69歳の時であり、その時代は1185年に壇ノ浦で平家が滅亡、同年義経は勝利報告のため鎌倉入りを願い出るが、源頼朝は願いを拒否して腰越から京へ追い返した。すでに頼朝は義経追討の準備を進めていたころであった。このような時代の激動の中で、西行は頼朝と藤原秀衝に会っている。 朝廷政治から武家政治へ転換するときであった。朝廷の力を削ぎ武家政治体制のために、源頼朝が朝廷を敬う弟・義経をも許さず追討するという非情さなどに西行は世の人の哀れを強く感じたに違いない。その心情を「心なき身にもあわれは・・」と詠んだのではないかと思います。西行はその約3年後に73歳で没しています。
このような観点から、「心なき身にもあわれは知られけり、鴫立沢の秋の夕暮れ」を考えると、またNHK「義経」を観ると新しい感慨が生まれると思います。
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鴫立庵
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大磯こゆるぎの浜で地引網と懇親会
今年も「龍の会」では、大磯の海のすばらしさを知ってもらうために、会員の仲手川さんのご協力を得て7月3日地引網と懇親会を開催しました。40名近くの会員・家族・友人の楽しい交流ができました。
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地引網を皆で引く |
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地引網の取れた魚は? |
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